大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和51年(ネ)2523号 判決 1978年5月30日

控訴人 渡辺正子

右訴訟代理人弁護士 勝本正晃

立石邦男

沖本捷一

被控訴人 池袋交通株式会社

右代表者代表取締役 金岡洋平

被控訴人 星野勝利

右両名訴訟代理人弁護士 江口保夫

斉藤勘造

増田次郎

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、「原判決を取り消す。被控訴人らは各自控訴人に対し金一、九五六万四、五六七円及びこれに対する被控訴人池袋交通株式会社においては昭和四九年六月二七日から被控訴人星野勝利においては同年七月四日から各支払済みに至るまで年五分の割合いによる金員を支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」との判決ならびに仮執行の宣言を求め、被控訴人ら代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上及び法律上の主張ならびに証拠の関係は、左のとおり付加するほか、原判決事実摘示のとおりであるから、ここにこれを引用する。

(控訴人の陳述)

(一)  控訴人の右眼の視力減退と左眼の失明は、硝子体出血ないし網膜剥離に基づくものである。そして、硝子体出血は、糖尿病、高血圧等の内科的原因又は眼球打撲等の外科的原因によって生じ、また、網膜剥離は、先天的変性に起因するものと、外傷に基づくものとがあり、外傷による場合でも、頭部なかんずく眼に近い部分を強打した場合には、事故から数年も経てから、しかも、高度の近視とか老齢のための変化等によって傷つき易くなっている眼にあっては、素早い動作とか重い物を持ち上げる作業によっても網膜剥離が生ずることもある。控訴人は、本件事故により四メートルも飛ばされて頭部等を路面に強く打ち付けたのであるから、右眼の視力減退は、本件事故によって生じたものであるというべく、また、左眼の網膜剥離が本件事故後三年以上も経ってから発生したとはいえ、他に特段の事情がなかったので、本件事故と網膜剥離との間に因果関係の存在が肯認されるべきである。けだし、訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挾まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるからである(最高裁判所昭和五〇年一〇月二四日第二小法廷判決、民集二九巻九号一四一七頁参照)。

(二)  本件事故につき昭和四八年八月二四日東京地方裁判所において成立した裁判上の和解は、当時控訴人に脳波にびまん性非特異性異常の後遺症(保険会社認定一二級一二号)が認められ、頭痛、頸部痛を訴えて向う一年間の治療を必要としたので、その費用を見込んで和解金が算出されたものであるが、控訴人の左眼の網膜剥離は、その保障期間内に右後遺症の悪化によって生じたものである。この点からみても、被控訴人らは、控訴人の左眼の失明による損害を賠償すべき義務を免がれることができない(最高裁判所昭和四三年三月一五日第二小法廷判決、民集二二巻三号五八七頁参照)。

(被控訴人らの陳述)

(一)  控訴人の右眼の視力減退は、本人の生理的要因に基づくものであって、本件事故とは何らの関係もない。

(二)  また、本件事故について成立した裁判上の和解は、向う一年間の治療費を見込んでなされたものではなく、既払金一八八万八、六〇〇円に含まれていない後遺症一二級一二号による逸失利益等(右治療費は含まれていない。)を算出し、その金額を和解金としたものである。

(三)  本件は、控訴人の左眼失明という結果が事故から三年余も経過した後に生じた事案であるから、控訴人がこの点について引用する最高裁判所判決とは事案を異にし、本件について右判決と同様の推認を行なうことは、許されない。

(証拠)《省略》

理由

控訴人は、昭和四五年三月一六日午前零時頃、目黒区上目黒一丁目六番一七号先路上横断歩道において、同横断歩道を横断中、大鳥交差点の方から国鉄目黒駅の方へ向けて南進してきた被控訴人星野の運転する被控訴人会社保有のタクシー(練馬五け二一三〇号普通乗用車)に衝突され、右肩鎖関節脱臼、左右膝関節捻挫、右下腿挫傷、頭部外傷、頸椎捻挫等の傷害を受けたことは、当事者間に争いがない。また、《証拠省略》によれば、次の事実を認めることができる。すなわち、

控訴人は、本件事故によって右から左に四メートル位い飛ばされて路上に転倒し、右肩、両足をコンクリートの路面に打ち付けたが、助け起こされたときは、さしたる痛みも覚えず、そのまま歩いて自宅に帰った。ところが、次第に肩や足が痛みだし、腫れてきたので、翌々日の一八日午後七時過ぎ頃、近くの外科医塚越正夫にみてもらい、前記のような診断を下されたが、その際、塚越医師は、控訴人の頭部や顔面に瘤、内出血等外見上の異常を認めていないこと。その後、控訴人は、治療を続けているうち、同年一一月二六日、頭がガンガンしてテレビも見ておれない状態になったので、脳波を計ってもらったところ、軽度のびまん性非特異性異常があるといわれ、さらに、昭和四八年一〇月二六日に至り、突然左目が見えなくなったので、眼科医犬養恭四郎の診断を受けた結果、失明の原因は、網膜硝子体出血であって、硝子体内に眼底を透視できないほどの血液が充満していることが判明し、なお、その際、右眼も検査してもらったら、視力が裸眼で〇・〇四という強度の近視であるといわれたこと。爾来、控訴人は、日本医科大学附属病院に入院し、二度にわたり左眼硝子体置換の手術を受け、治療に努めてきたが、一向に好転せず、昭和四九年三月一八日から慶応義塾大学病院の網膜系統の専門医である秋山健一の診断を受けるようになり、秋山医師は、失明の原因は網膜剥離であり、しかも、それが眼球内の全体に及んでおり、すでにしわやひだが固定しているので、それを手術で伸ばして視力を回復させることは至難であると判断し、また、本訴提起後の昭和五〇年九月二日の診断でも、左眼は、依然失明状態であって、白内障を併発していて回復の見込みがなく、右眼は、視力が裸眼で〇・〇三で、挙上縁附近の網膜上に二個の変性突起があるが、眼圧、眼球運動ともに正常であると認めており、なお、原審鑑定人三島済一も、昭和五一年三月二七日、右秋山医師とほぼ同様の鑑定の結果を下していること。以上の事実を認めることができ(る。)《証拠判断省略》

そこで、控訴人の右眼の視力減退及び左眼の失明と本件事故との間に因果関係が存在するかどうかを検討するのに、《証拠省略》によれば、

硝子体出血の原因は、現在の医学でも、少なからぬものが不明であるとされているが、糖尿病、高血圧等の内科的原因や眼球打撲等の外科的原因によって生ずるものとされており、また、硝子体出血のすべてが網膜剥離に連がるわけではないが、網膜剥離になるには、必らず、硝子体出血の過程を経ること。次に、網膜剥離は、先天的な変性ないし脆弱性(つまり、体質)に起因するものと、外傷に起因するものとがある。そして、先天的網膜変性のうちにも、生理的硝子体混濁のように網膜剥離に連がる率の極めて低いものと、格子状変性症のように網膜剥離に連がる率の高いものとがあり、高度の近視も、網膜出血から網膜剥離をひき起こす可能性があるとされていること。一方、外傷に起因する場合は、直接、網膜又は眼球に強い衝撃が加わえられたことによって生ずるのが普通であるが、時には、頭部打撲、身体の強打等による間接的受傷に起因することがあり、この場合には、事故から数年を経た後に網膜剥離の生ずることがある。かかる間接的受傷は、それ自体微弱であって、剥離の主要な原因となり得ないのが普通であるが、強度の近視、老化、疾患等により弱くなっている眼にあっては、それが引金となって網膜剥離の症状を促進させる決定的な役割を果たすことがあり、この種の間接的受傷の例としては、頭部や全身の打撲によるものから、素早い動作、身震、重い物を持ち上げようとして起こる肉体的緊張や腹部の圧力の急激な増加等による局部的血圧の増加、果ては、眼をこすったり、くしゃみをすることによるものに至るまで、数多く考えられること。しかも、間接的受傷と網膜剥離徴候の認識との間に数年もの時間的間隔がある場合には、瘢痕状の組織と収縮した傷跡があれば格別、然らざる限り、受傷と剥離との間に因果関係の存在を認めるには、留保付でなければならないこと。

さらに、控訴人にみられる脳波の異常は、軽度であるばかりでなく、もともと、それが脳神経系統の障害であって、血管系統の障害である眼底出血や網膜出血とは直接関係がないので、網膜剥離の起因となることはないこと。なお、控訴人の右眼の挙上縁付近にある二個の網膜上変性突起は、一種の先天的変性ではあるが、本来網膜剥離とは無縁のものであり、また、左眼の白内障も、前叙認定のごとく、網膜剥離の生じた後に、しかも、それに併発して発生したというのであるから、網膜剥離のため水晶体の栄養が欠落したことにより続発的に生じたものであって、本件事故とは直接の関係がないこと

が認められ(る。)《証拠判断省略》

しかして、《証拠省略》によれば、控訴人の右眼の視力減退が本件事故と関係のないことは、明らかであり、また、左眼の失明と本件事故との間に因果関係が存在するかどうかについては、前段認定に係る諸事実、殊に、控訴人が本件事故の際頭部なかんずく眼球附近を強打した事実はなく、もとより、瘢痕状の組織と収縮した傷跡が現存していないこと、控訴人の左眼の失明が本件事故より三年半余も経過した後に生じていること等からみて、医学上は因果関係が存在するかどうか一応不明であるとする考え方を採るのが相当である。そればかりでなく、《証拠省略》によって認められる次の事実、すなわち、控訴人は、昭和二年三月二五日生れ(失明当時四六年七か月)の女子であって、バーのホステスをしていたが、これまでに糖尿病、高血圧等網膜出血の原因となるような内科的疾患にかかったことがないとはいえ、女学校当時から相当の近視で近眼の眼鏡をかけていたことに徴すれば、控訴人の右眼の視力が〇・〇三という高度の近視であることは、多分に先天性のものであって、それが老人性変化によりさらに強められたというべきである。従って、右眼が高度の近視であるからといって、直ちに、左眼も同様であったと断定することは許されないとしても、視力は、左右対称であるのが普通であるから、控訴人の右眼も、失明前は、相当程度の先天性の近視であったと推認することが可能である。されば、現代の医学上、高度の近視が先天的網膜変性の一種として網膜剥離の要因となり得ることが否定できないとされている以上、控訴人の左眼の網膜剥離は、先天的な高度の近視によってひき起こされたものではないかとの疑念を払拭し難く、また、仮りに、先天的網膜変性としての高度の近視によるものでないとしても、後天的にもしろ高度の近視或いは老人性変化によって剥離し易くなっていた左眼に、仕事中の緊張とか強く力むといった日常誰でもするような動作により生ずるいわゆる間接的受傷が引金となって誘発されたものと推認し得る蓋然性が極めて大きいことは確かである。

されば、控訴人の右眼の視力減退と本件事故との間に因果関係の存在しないことは明らかであり、また、左眼の失明と本件事故との間に、医学上因果関係の存在しないことを的確に証明することはできないとはいえ、右のごときいわゆる「特段の事情」が高度の蓋然性をもって証明されている以上、その間に不法行為成立要件としての因果関係の存在を肯認することは、許されないものといわなければならない。

よって、控訴人の本訴請求は、その余の争点について判断を加わえるまでもなく、すでにこの点において失当であるから、これを棄却した原判決は、相当であり、本件控訴は理由がないから、民訴法三八四条、九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 渡部吉隆 裁判官 渡辺忠之 柳沢千昭)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例